日本古代 土器の基礎知識

土師器と須恵器の互換性

 日本古代を代表する土師器と須恵器という2つの焼き物は、飛鳥時代から奈良時代では器の形、サイズが類似します。これは須恵器生産がはじまった古墳時代の焼き物づくりからすると、異常なことです。古墳時代では、土師器と須恵器は、そもそも食器の形が全くことなっており、さらにつくり方も違っていました。また土師器の製作者は女性が想定され、須恵器は男性が製作したという仮説が有力です。もちろん、どちらも粘土の運搬や調整などは男性が担当するなど、男女の協業が考えられますが、製作技術が土師器と須恵器で交わることはありませんでした。

 飛鳥時代においても土師器と須恵器の技術が混交することは基本的にはありません。しかし、器の形、サイズにおいて、両者は驚くほどに類似します。同じ型をつかったとは、土器の観察からいえないのですが、見本となる作例などがあったと思われます。そして、なによりも土師器と須恵器の製作工房に対して、共通の発注主体が存在したことをうかがわせます。この共通性は、7世紀後葉という暦年代を想定できる飛鳥Ⅲ期後半という時期に顕著となります。

 この点に注目した西弘海さんは「飛鳥Ⅲ期後半の食器類を中心とする様式的発展とその特質―多様な器種分化とその前提となる法量の規格性は、律令制古代国家の中核をなすものであった、官僚制の発展と、それにかかる大量の官人層の出現とその特殊な生活形態を前提として、はじめて理解できるものである」(西1982)と論じました。

 ここでいう多様な器種分化とは、主に食器類の種類が豊富であることをいいます。机の上、あるいは折敷(おしき)といった木製のトレイにおいた杯や椀、皿といった食事や供え物の器が、大、中、小といった様々なサイズでそろっているということです。

 それでは、どうしてこうした様々なサイズが必要だったのでしょうか。

 西さんは、ここで大量の官人層の出現とその特殊な生活形態を反映していると推測しました。これは、わかりやすく言うと、「給食がはじまった」ということになります。例えば、社員食堂や学生食堂では、ごはんを盛る器、汁物の器、うどんやそばの器は基本的には個人が持参するものではありません(ちなみに古代ではうどんやそばはありませんが、索餅(さくべい)という麺類があります)。また、食堂でごはんやおかずを選ぶときには、大盛りの人、少食の人などがいますし、小鉢や大皿など、おかずによって器も変わります。しかし、1品1品、食器の形状やデザインを変えることは効率的ではありません。同じ形状やデザインの食器を用意しておくことが、給食には適しています。また、S/M/L/LLといったようにわかりやすいサイズ分けが配食の際には便利です。

 奈良時代には平城京に1万人を超す官人が出仕していたといいます。古墳時代には、有力者が存在した政治的な拠点(例えば、葛城氏の南郷遺跡群、物部氏の布留遺跡など)はありましたが、都城ではありません。飛鳥時代後半期から奈良時代にかけて、多様な器種分化と法量の規格化を背景として、土師器と須恵器に互換性が生まれるということは、宮都の成立と密接にかかわっていると読み解けるのです。

 なお、西さんはこの土器様式を「いささか奇妙な表現ではあるが」とことわりつつ、「律令的土器様式」(西1982:19頁)とよびました。いまでは、宮都に限定的な特殊な土器様式であるために、「宮都的土器様式」としたほうが良いという意見が有力です。