日本古代 土器の基礎知識

須恵器の窯跡

 須恵器は、土師器以上に日本列島の広範囲で共通の製品が生産、使用されました。器形やサイズ、製作技術、装飾に規格性がみられ、それゆえ発掘調査で須恵器が出土すると、年代がよくわかります。

 須恵器の源流である韓半島南部の陶質土器では、新羅しらぎ百済くだら、加耶諸国などの異なる土器様式圏が100~200㎞の比較的狭い範囲に存在します。この状況と比較すれば、広範囲における様式的な斉一性を持つ点は、須恵器の大きな特徴といえます。

 須恵器は、大阪府堺市、和泉市、狭山市にまたがる泉北丘陵に5世紀から9世紀半ばに至るまで854ヵ所の須恵器窯の存在が把握されていまして、陶邑すえむら窯跡群として知られています。この窯跡には、伏尾遺跡などを代表として工房群や倉庫と考えられる建物群も発見されています。したがって、土師器より専業度合いが高いことは確実視できます。近年では、陶邑の各地域における特徴も議論されるようになっています。

 古墳中期後半以降、日本列島各地に須恵器の技術移転がなされ、地方窯が定着した点も須恵器の普及に役割を果たしました。菱田哲郎によると、須恵器生産技術が各地に根付いたことにより、地域色が発現することとなるといいます。ただし、各地で生産された特徴ある須恵器は、その地域で消費されたことに加えて、中央に運ばれたものがあることも判明しています。

 以上のように、列島広範囲に共有された土器は、技術移転の度合いが高まっていきます。古墳時代前期の土師器は各地で判型が共有されることによって、中期の須恵器は製品そのものの搬出によって、共通性が生まれました。

 さらに、須恵器生産は、当初西日本の各地において韓半島から陶工を直接招聘し、渡来型の須恵器窯が各地に操業されますが、5世紀半ば以降により共通性の高い技術が移植されました。この須恵器窯の拡散現象は、地方から陶邑に赴き、技術を習得して元の地に戻ったと推測されています。