日本古代 土器の基礎知識

日本古代の土器様式とその特質

「土器が、或は一般に遺物が文化のメルクマールとなるのは、土器が文化の変転と相照応してその様相を変じてゐるからである。その変貌によって、推移する文化の一時一時の姿を造形せられた物として可視の形に捉えてゐるからである」

 ──土器をこのようなものとして捉えるならば、土器の研究において、その様式の追及、あるいは結果としてそれぞれの様式の成立とその変遷を導いたもの──様式変化の背景の追及ほどに重要なものはないであろう。
──────西弘海1974(脱稿)「土器様式の成立とその背景」『土器様式の成立とその背景』(初出1982年)

 半世紀ほど前、西弘海さんは、このように土器研究の意義を唱え、飛鳥・奈良時代の土器様式とその成立を追求しました。そして、古墳時代から奈良時代までの土器様式について、以下のようにまとめます。

古墳時代前半:土師器にみる弥生時代後期土器からの様式的連続性。古墳墓制の画一化と連動した小型丸底土器と器台の斉一性と広域分布。
古墳時代後半:新たに導入された須恵器と緩慢な様式的変化がみられる土師器との土器複合。
7世紀初頭:朝鮮三国の仏教文化を基調とした金属製容器の直接的模倣「金属器指向型」。
7世紀後半:「律令的土器様式」の成立、多様な器種分化と法量の規格性。
8世紀前半:「律令的土器様式」の発展と法量の互換性の確立。
8世紀後半:律令制古代国家の緩やかな弛緩と法量縮小傾向。とりわけ須恵器杯類の減少。
9世紀:瓷器生産の開始と黒色土器の出現。
11世紀中頃:単一法量と規格性を特徴とする瓦器椀の成立。

 西さんのご研究は、資料が増加し、研究が細密化したいま、見直さなければならない点はいくつかあります。しかしながら、土師器と須恵器という2種類の焼き物を一体的に日本古代の土器様式として評価した点はいまでもその輝きを失っていません。むしろ、土器研究が細密化し、全体像の把握が難しくなっている今の土器研究の現状にかんがみると、学ぶことが多いと思います。

 日本古代の土器様式に特徴的な点は、伝統性を帯びた土師器と外来的な須恵器が、食器として調和的に共存していることです。これは東アジアのほかの地域ではみられない、特殊な様式です。もちろん、須恵器がつくられはじめた古墳時代中期では須恵器が多く出土する河内湖周辺、土師器を重視する奈良盆地といったように近畿地域の中でも差異がありました。しかし、こうした差異は飛鳥時代には変化しました。ここに様式変化の画期があります。

 飛鳥時代の後半期には、土師器と須恵器の法量による互換性が確立し、奈良時代へと続く様式が確立しました。そして、機能的には須恵器より劣っているといえる、土師器は現代にいたるまで、使われ続けています。

 日本古代における土器様式の特質は、次に述べる3つの点が重要と考えます。1つは、伝統的な土師器と外来の須恵器という異なる器種の供膳器(杯、高杯)と小形の貯蔵器(直口壺、台付壺など)が、共存しつつ用いられている点です。外来の器は、飛鳥時代には金属製容器、奈良時代には唐三彩や奈良三彩、平安時代には中国青磁や白磁に変わっていきます。時代の変化に呼応して、東アジア世界とのつながりも変化してきたことが土器様式に反映しています。また仏教文化をはじめとして東アジア全体の文化的影響も土器様式に色濃く反映しています。しかし、一方で、どの時代も土師器の供膳器は使われ続けます。日本列島在来の器として、土師器が重宝されていたことを物語ります。伝統と革新、在来と外来の器が陰陽のように調和している点に第1の特質があります。

 2つ目は、日本列島広域に供膳器や貯蔵器が共有される点です。これは東アジア世界の土器文化と比較したときに一層明瞭となります。古墳時代を例に挙げると、韓半島の三国時代では、新羅と百済では全く供膳器の器形やデザインが異なっており、文様を多用し、透窓などで飾る新羅、基本的に無文で質朴な百済といった違いが明瞭です。一方で、日本列島では須恵器を代表として、東北南部から南九州まで陶邑窯跡群の製品が供給されるとともに、列島各地の地方窯でも器種、器形、技術的には類似する製品がつくられました。もちろん、微細な点に着目すると地域色を見出すことができます。しかし、東アジアの中で比較すると、倭人たちが用いた土器は共通性が高く、それは飛鳥時代から奈良時代にも継受されます。

 3つ目は、政治文化的な画期と土器様式の刷新が連動することです。この点は西さんの指摘が的を得ていたことを示しています。政治的変動に関して言うと、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代といった時代の転換点と土器様式の変動が重なっている点が指摘できます。ただ、詳細にみていくと、かならずしも時代の画期と呼応しない点もあります。たとえば、平安時代のはじまりでは、土器様式そのものは奈良時代の終わりとほとんど変化がありません。平城京と長岡京、平安京で同じような土器が用いられており、一部は運ばれた可能性が指摘されています。しかし、平安時代がしばらく続くと、緑釉単彩陶器の出現など、土器様式に刷新が認められます。この画期には、嵯峨天皇の時代の文化的変化が指摘されています。ほかの時代でも、政治的な変動や社会文化的な変化など、古代の土器様式が大きく変化する背景には、理由があります。以下では、「土師器と須恵器の互換性(飛鳥時代)」「東アジア世界のなかでの日本古代土器様式(平安時代)」といったトピックに分けて、いくつかの変化について詳細にみていきましょう。