日本古代 土器の基礎知識

陶質土器と須恵器

 現在、古墳時代の考古学では、韓半島でつくられ、日本に舶来した還元焔焼成の焼き物を陶質土器と呼び、日本列島内の窯で焼成された須恵器と呼び分けています。陶質土器は厳密には韓半島系陶質土器ですが、研究が進んできたいまでは、金官加耶きんがんかや系、百済くだら系、新羅しらぎ系と古墳時代とおおむね併行する韓半島三国時代の政治的な領域に故地を求めることも可能となっています。また、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけては、楽浪らくろう系瓦質土器なども北部九州や山陰地域で出土します。今後、東アジア各地で陶質土器や瓦質土器の研究が進むと、さらに細かな地域の特徴が判明し、系譜追求もより明確になるでしょう。

 さて、須恵器は韓半島南部、とりわけ加耶地域の陶質土器の影響を強く受けて、生産がはじまりました。したがって、古くなればなるほど、須恵器は加耶系陶質土器と類似し、なかなか区別がつかなくなります。発掘調査で出土する小さな破片であれば、なおさら陶質土器と須恵器の区別が難しい場合も多いところです。胎土に含まれる鉱物の分析などを用いなければ、判断できかねる資料も少なくありません。容易に区別がつかない場合は、陶質土器・須恵器と一括して呼んでいます。

 これまでは須恵器の出現については、「朝鮮半島の陶質土器と酷似した最初期の製品から変容が進み、日本列島特有の須恵器へと定型化、日本化が進む」という考え方が通説となってきました。しかしながら、大阪府堺市に所在する陶邑のON231号窯や濁り池窯で焼成された製品には、韓半島南西部に由来する器種があることから、初期須恵器の技術系譜を半島南東部の洛東江流域のみに求めることはできないこともわかっています。

 陶質土器と須恵器の関係を探るうえで、良質の資料を提供してくれる遺跡は、古市古墳群にある野中古墳です。 野中古墳は、大阪府藤井寺市野中に所在する墳丘の1辺が39mを測る中規模の方墳で、古市古墳群のほぼ中央に位置し、東北方に墳長415mの規模を有する誉田御廟山古墳が、南方には墳長225mを測る墓山古墳があります。野中古墳は、向墓山古墳、浄元寺山古墳、西墓山古墳とともに墓山古墳の周囲に築造された陪冢です。

 野中古墳では、墳頂部より陶質土器・初期須恵器が約6800片、土師器が約2000片が出土し、陶質土器である小型把手付壺および小型蓋7点は墳頂部の土器とは区別されて第2列遺物群に埋納されていました。小型把手付壺および小型蓋は、韓半島南東部洛東江流域、特に金官加耶との共通性が高く、三角透窓高杯は小加耶、蓋には大加耶系とみられるものがあります。