日本古代 土器の基礎知識

土師器の研究

 古墳時代の土師器については、20世紀後半から半世紀を経て、数多くの論文が公表されており、研究が活発になされてきました。特に、弥生時代から古墳時代にかけて、古墳が出現する時期を考古学的に明らかにすることを目的として土器が研究されています。古墳出現前後の土師器は、「古式土師器こしきはじき」と呼ばれて、その定義や弥生土器との違いをめぐって日本考古学の中で論争があります。

 古墳時代土器研究は、20世紀初頭以降の資料紹介からはじまり、1930年代に地名表や集成がなされるなど、基礎ができあがりました。このなかで土師器の斉一性せいいつせいが論じられ、土師器の古い様式を代表するものとして布留式ふるしき土器が位置付けられました。布留式土器は、奈良県天理市に所在する布留遺跡に名前の由来がある土器です(末永雅雄・小林行雄・中村春壽1938「大和に於ける土師器住居阯の新例」『考古学』第9巻第10号、東京考古学会)。そして、1950年代以降、大規模な開発工事にともなう発掘調査事例の増加によって良質な資料数が得られ、研究は著しく進展してきました。

 土師器に関する研究には、主に2つの論点があります。

 1つ目は、古墳時代開始期における土器様式の追求です。2つ目は、古墳時代開始期における土器の広域分布と土器の移動についてです。残念ながら、古墳時代の土師器は、須恵器が普及する5世紀以降になるとほとんど研究がすすんでいませんでした。ただし、この10年、5世紀から6世紀にいたる土師器の研究が進み、古墳時代を通じた土器様式の把握が可能となっています。

 1つ目の論点は、弥生時代と古墳時代の境となる土器様式、「庄内式土器」を提唱した田中琢の研究によって開拓されました(田中琢1965「布留式以前」『考古学研究』第12巻第2号、考古学研究会)。この庄内式土器を弥生時代終末期に位置づけるのか、それとも古墳時代早期に位置づけるのかといった点が主要な研究関心となり、古式土師器の編年研究がすすんだのです。奈良県纏向遺跡の発掘調査によって、弥生時代後期の土器(第Ⅴ様式土器)、庄内式土器、布留式土器の層位学的関係が明瞭となった点も編年研究が深化する契機となりました(石野博信・関川尚功1976『纏向』桜井市教育委員会)。この編年研究の進展の中で、層位学的検討と型式学的研究手法と理論が活発に議論され(寺沢薫1986「畿内古式土師器の編年と二・三の問題」『矢部遺跡』奈良県立橿原考古学研究所、森岡秀人・西村歩2006「古式土師器と古墳の出現をめぐる諸問題」『古式土師器の年代学』大阪府文化財センター)、考古資料論の議論が積み重ねられた点も日本考古学史として重要です。現在では、『古墳時代の研究6 土師器と須恵器』(石野博信・岩崎卓也・河上邦彦・白石太一郎編、雄山閣、1991年)、『古墳時代の考古学1 古墳時代史の枠組み』(一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編、2011年、同成社)によって全体像を把握することができます。

 もう一つの論点は、こうした土器の編年研究が進む一方で、日本列島各地で同時期につくられた土器の地域的な特徴がわかり、そして各地の土器が「移動」することが明らかになったため、土器の移動をもとに地域間の交流を復元しようという試みです。もちろん、土器に足がはえて、動くことはないので、地域特有の土器は人の手によって運ばれるか、土器をつくった人が移住したか、または土器づくりの情報が広がった、ということになります。日本列島各地の土器は、その故郷において、こまかな形やつくり方の違い、素材となった粘土や鉱物の特徴などが解明されてきました。そして、その情報をもとに土器の故郷探しが各地の発掘現場でなされてきました。土器を地域的な特徴を把握し、そことは違ったところでその地域的な特徴をもつ土器から、人の移住か土器そのものが運搬されたか、それとも地元の人によって他地域の土器が模倣されたかどうかといった議論を積み重ねていくことは、古墳時代前期の土器研究にとって欠かせないことです。