土師器の製作者
古墳時代から千年をこえてつくり続けられた日本の土器文化を代表する焼き物の一つである土師器は、弥生土器に系譜をひく素焼き(すやき)の土器です。この土師器の製作者は、民族学の研究成果や断片的な史料より女性であることが確実視されています。ただし、これを証明することは簡単なことではなく、あくまで現在、こう考えられているというものです。
古墳時代の土師器に先行する弥生土器の製作者は、女性であるという議論があります。民族学の立場から性別分業を論じたジョージ・ピーター・マードック(George Peter Murdock、1897年~1985年)の研究成果を、日本考古学に紹介した都出比呂志さんの研究が、製作者を知るうえで基本的な研究となっています(都出比呂志1989『日本農耕社会の形成過程』岩波書店)。
マードックさんは、 世界各地の224の種族の民族誌をもとに、46種の労働を男女どちらが主体的に携わっているのかといった傾向を調べました (Murdock, G. P., “Comparative data on the division of labor by sex”, Social Forces, 15, 1937, pp. 551-553.) 。
都出比呂志さんは、マードックさんのデータを基礎として、男性優位労働、中間形態、女性優位労働とまとめ直しました。たとえば、女性優位の比率が7割を超す労働は、穀物製粉、水の運搬、調理、野草・根菜・種子の採集、衣類の製作と修繕、食物の保存管理、土器・織物・敷物・籠・糸・縄の製作となります。こうした労働をみると気が付くことは、衣・食を基軸として筋肉労働の要求度が少なく、居住地の近隣で営む労働が多いということです。なお、男性優位の労働は、力仕事が多く、かつ遠隔地に赴く必要のあるものとなっています。土器生産は自家消費的な場合、女性によって担われた事例が8割にものぼります。ただし、商品化された土器や専業者が生産する場合は、男性優位労働と考えられていることには注意が必要です。そして、 この議論は、あくまで人類学が説く世界的な傾向に過ぎないことには、注意する必要があります。
日本古代から中世、近世にかけては断片的ながらも、文献史料によって土師器の製作者がわかっています。たとえば、「正倉院文書」天平勝宝二(西暦750)年「浄清所解」には、借馬秋庭女という女性の土器づくりの名がみえて、男性が粘土採掘から製品運搬までの作業を助けています。延暦二三(804)年の『皇太神宮儀式帳』には、神饌を盛る器として「童女の焼いた」土師器しか用いないことが記される(岡田精司1982「宮廷巫女の実態」『日本女性史』一、女性史総合研究会編 東京大学出版会)。平城京木簡では「土師女六人」の記載より、京内に女性からなる土師器製作集団の存在が浮かび上がります。さらに中世の『梁塵秘抄』にも楠葉(大阪府交野市)に土器づくりの美しい娘がいたことがうたわれているほか、京都岩倉木野・幡枝には、戦後の一時期まで土師器皿を製作する女性たちが存在していました。文献史料をもってしても、なかなか土器製作者の性別を探っていくことは難しいのですが、以上の資料を手掛かりとすると、日本では古代から現代にかけて、自家消費の範疇をこえる土器生産を女性が担っていることが明確となっています。
弥生土器と奈良時代以降の土師器は、女性が製作したので、そのあいだの時代の古墳時代においても土師器の製作者は、女性であった可能性は十分に高いという推測をたてることはできます。ただし、確証を得るためにはさらなる研究が必要となるでしょう。