土師器と韓式系軟質土器
およそ4世紀末から5世紀にかけて、近畿地域を中心に、古墳時代の土器様式は大きく変貌しました。それは、1)須恵器の出現によって、貯蔵用の壺が次第にみられなくなること、2)供膳形態においても土師器の高杯と椀、杯と須恵器の食器類が組み合わさることです。したがって土器様式は、古墳時代前期とは異なり、土師器や須恵器という焼成の違い、生産元と流通の過程が異なる土器によって構成され、器種間の役割がより明瞭になります。この画期は、のちの飛鳥・奈良時代にも継承されることとなります。日本古代の土器様式の原型は5世紀に出来上がるといっても過言ではありません。
そして、日常的な調理道具も大きく変化しました。それは、稲作がはじまり、普及していったときに炊飯用の土器(甕形土器)も広がったこと、電気を利用した炊飯器が発明され、各家庭で必需品となっていったのと同じくらい、食生活にインパクトをあたえるものでした。
さらに、中国大陸を発祥とし、韓半島で広がりをみせた新しい調理用土器や厨房施設であるカマドが、この時期に日本で本格的に定着しはじめます。カマドの出現は、福岡県西新町遺跡を代表例として、3世紀には北部九州を中心に伝来しました。ただし、3世紀に該当する邪馬台国の時代から3世紀半ばからはじまる古墳時代にかけて、九州から西日本各地、そして東日本へ、大陸由来の調理用土器がカマドとともに波及していったのかというと、そういうわけではありません。カマドやそれに類似する調理施設はたしかに日本列島各地に広がりますが、それは点的にとどまり、とてもめずらしいものでした。
住居内にカマドが造りつけられ、一般化していく時期は4世紀末から5世紀です。そして同じ時期に近畿地域では、韓式系軟質土器と呼ばれる韓半島系渡来人の生活とかかわる土器とともに、カマドが日本列島広域に受容されはじめます。
「韓式系土器」とよばれる渡来人の住所を探し当てるうえで欠かせない土器があります。この土器群は、いまでは「韓式系軟質土器」といって「器形や製作技法が三国時代の韓半島南部地域にみられる赤褐色軟質土器に酷似したもので、長胴甕、小型平底鉢、甑、鍋など、日常の調理に用いられた器種を主体とする土器群」と、定義づけられています ( 田中清美2005「河内湖周辺の韓式系土器と渡来人」『ヤマト王権と渡来人』大橋信弥・花田勝広編 サンライズ出版)。
韓式系軟質土器の器種には、カマドの前において調理された小型平底鉢、食器の一種としての把手付鉢、平底鉢、カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕、同じくカマドにかけられた羽釜、大人数のために煮込み調理などがなされた鍋、厨房道具としての移動式カマド、蒸し調理に用いられた甑、北方遊牧民族の調理具である直口鉢(鍑)、カマド全面を保護するためのU字形カマド枠などがあります。このうち、主な器種は小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑である。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状が日本列島在来の土師器と異なるだけではなく、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落がわかることになるわけです。もちろん、韓式系軟質土器の破片が出たからといってすぐに「渡来人の村」と評価することはできません。日本列島在来の倭人が模倣した可能性や長らく倭の土地に根付いた渡来人が製作する土器もあります。こうした特徴を丹念に観察し、見分け、そのうえで評価をしていくことが大切です。
近畿地域では、韓式系軟質土器が数多く出土し、陶質土器を含めた韓半島系土器出土遺跡は、現在315遺跡を数えます 。今後、さらに増加すると考えられます。ただし、ほぼすべての遺跡において韓式系軟質土器は土師器とともに出土しています。そして発掘調査で出土した土器の比率を算出すると、土師器の方が圧倒的に多いことには注意が必要です。このことは、当時の集落内人口における渡来人の比率を推測する際に有効な視点となります。