階層性からみた古代土器
日本古代の土器には土師器と須恵器の2種類があることは、このHPのなかで、折に触れて述べてきました。そして、日本古代土器様式を東アジア社会の中で、特徴づける点として、土師器という軟質で、簡素な焼き物が重宝されてきたことも指摘してきました。
それでは、土師器と須恵器は、どちらも同じ階層が用いていたのか、それともどちらかの焼き物の方が高い階層のみが用いるといった高級品と位置付けられていたのでしょうか。
こうした点は、土師器と須恵器がどういった遺跡、さらには遺跡内でのどういったところから出土するのかといった点から明らかになります。
古墳時代中期、4世紀末から5世紀初頭に須恵器生産がはじまった時、須恵器は貴重品でありました。韓半島から海を越えてもたらされた舶来の陶質土器も同じく貴重な奢侈品であったと考えられます。古市古墳群にある野中古墳では、陶質土器に加えて、8000点をこえる初期須恵器の破片が出土しています。また、古市古墳群にある大規模祭祀・集落遺跡である津堂遺跡でも大量の初期須恵器が出土しています。しかし、淀川流域、播磨平野の集落遺跡では、地域すべての初期須恵器を集めても数百点程度で、古市古墳群や百舌鳥古墳群周辺の遺跡から出土する数万点に比べると、圧倒的な差があります。これは近畿地域とほかの地域を比較した際によりいっそう明瞭になります。
ただし、須恵器より土師器の方が価値の点で低かったかというと、そうでもなさそうです。現在、「陵墓」として宮内庁が管理をしている巨大前方後円墳のうち、整備工事などで墳丘調査が行われたものには、特徴的な土師器が比較的多く出土しています。先に述べた野中古墳でも、土師器の高杯が約30個体検出されました。土師器は、たとえば、奈良県天理市の布留遺跡などでも土師器が出土しています。この遺跡は、古代有力豪族である物部氏の拠点とみなされる遺跡であり、集落高所の祭祀空間(豊田(宇久保)地区)で土師器の高杯がまとまって出土しています。「カミマツリ」や最有力者の葬送儀礼、饗宴などでは、伝統食器である土師器が重要視されたようです。
このことが、飛鳥時代における土師器と須恵器の互換性につながっていった可能性があります。例えば、韓半島では三国時代の段階ですでに土師器と同じ酸化焔焼成の供膳器は、ごく少数か、生産されていないためです。同じことは施釉陶器が中心となる、中国大陸でも同様です。伝統性を帯びた土師器は、倭人にとって欠かせない意味を持っていたのだと考えられます。そして、土師器と須恵器には互換性があるように、両者で階層的な違いはありませんでした。
変化が訪れるのは、平安時代前期、9世紀前葉の時期です。
平安時代の土器・陶器には、施釉陶器である緑釉陶器、灰釉陶器、基本的に無釉の須恵器、白色土器、素焼きの土師器、内面や外面に炭素を吸着させて表面が黒色になった黒色土器があります。ほかにも漆器、金銅製容器、木製容器など什器としては多種多様な器があったのですが、出土品より多く用いられたことがわかるのは土器になります。木製の器は日本の酸性土壌では土の中で分解されてしまい、金属製容器は高級で普及はしていなかったとみられるためです。
平安時代の焼き物は、基本的に土師器と須恵器で構成されます。器形やサイズに互換性があった奈良時代と異なり、平安時代は器質によって焼き物の役割や使用者が異なった時代といえます。器質とは、焼成方法によって焼き物を分類するときに、用いる基準です。
緑釉陶器は、施釉前に素地を焼成し、貴重な鉛釉をかけて、再度800度程度の低温で焼きあげる高級陶器です。灰釉陶器は東海地域の猿投窯が主な産地で、緑釉陶器と器形は大きくかわらないのですが、灰釉をかけた素地が1,100 度を超す高温で焼成されました。平安時代の施釉陶器は中国陶磁や金属器を模倣対象としており、国家的な儀礼や饗宴で用いられました。また喫茶の風習とも関連すると考えられています。白色土器という、平安京近郊産の緑釉陶器と技術的に共通する無釉の土器も重要です。緑釉陶器に体現された唐風に対して、和風をあらわす供膳器と評価されています。
須恵器は、奈良時代の器種を引き継ぎますが、平安京では徐々に甕や壺、鉢といった貯蔵や大型の供膳器のみとなってしまいます。かわって供膳器の主役となっていくのが、土師器の杯や皿、高杯です。生産効率がよく、またよく使い捨てられた土師器は、「清浄の器」として、平安貴族をはじめ、都の人々に永く愛好されました。 平安時代には、器質によって明確な階層差があり、上位には緑釉陶器、さらには中国陶磁などがありました。しかし、ここでも土師器は上下問わず、使用され続けます。日本固有の伝統供膳器である土師器の杯は、中世には「かわらけ」として、近世にもつづいて使用され続け、現代では神社の参拝などで用いられています。