日本古代 土器の基礎知識

日本古代の調理用土器にみられる変化と和食の起源

調理用土器さまざま

 土器にはさまざまな種類がありますが、大きく分類していくと、貯蔵用の甕(かめ)や壺(つぼ)、食器としての杯(つき)や高杯(たかつき)、椀や皿、そして調理用の甕(かめ)や鍋です。縄文時代草創期に土器がつくられはじめたときは、調理用の深鉢(ふかばち)しか、土器の種類はありませんでした。しかし、その後、縄文時代の後・晩期など、盛り付ける、給仕するといった用途をもった浅鉢(あさばち)がつくられはじめました。なお。土偶といった呪術的な意味をもった土製品も、縄文時代草創期にはつくられています(滋賀県相谷熊原(あいだにくまばら)遺跡例)。土器の種類は弥生時代に壺や蓋、高杯などが加わり、古墳時代にはさらに須恵器によってさらに器種が増えました。江戸時代には陶磁器の生産もはじまり、わたしたちの日常生活に近い、食器に近づきました。現代では、便器も陶磁器であることが多いですし、電気を絶縁し、電線を支えるための器具である碍子(がいし)も磁器です。生活のあちこちに土器や陶磁器は活躍しています。

甕と呼ぶか、鍋と呼ぶか

 調理用の土器も各時代で増加し、あるいは数が増えたり、単純になったりという変遷を遂げてきました。縄文時代では深鉢、弥生時代から飛鳥時代にかけては甕と、呼び方は変わりますが、どちらも調理用の土器です。鉢というと現代では植木鉢やラーメン鉢など、あまり調理用土器のイメージがわきません。また、甕は古墳時代から平安時代では、須恵器の甕は貯蔵容器、土師器の甕は煮炊きの道具、と器質によって用途が全く異なるのに、同じ呼称です。まぎらわしいので、統一をしたほうがよいのですが、すぐには直りそうもありません。「深鍋」にしましょうという提案(小林正史2011「縄文・弥生時代の煮炊き用土器を「深鍋」と呼ぼう」『古代学研究』192)も考古学界であったのですが、改まらずに今日を迎えています。羽釜など、民俗資料に近い調理の道具は平安時代末から鎌倉時代にかけて普及していき、現代の土鍋に近い鍋は中世に原型を求めることができます。弥生時代や古墳時代の調理用土器は、いまの浅くて、2つあるいは1つの把手のある鍋とは大きく形が違います。これも「深鍋」が定着していない理由の1つかもしれません。いま、私たちに馴染み深い把手がある鍋は、5世紀から8世紀につかわれただけで、その後は明治時代に再び登場します。どちらも海外からの影響を受けて出現するといった共通点もあります。

おいしいごはんの考古学

 さて、このように調理をする土器は、時代によって形が大きく変遷しており、呼び名もずいぶんと歴史的に変化してきたといえます。それでは、調理した内容はどうだったのでしょうか。和食の中心、世界では珍しい「主食」の地位をしめてきた、ごはんの調理道具に注目をしていきましょう。

 日本列島で米作りが普及し、お米を食べるようになった時期は弥生時代です。弥生時代に先行する縄文時代では、深鉢を調理道具にして、貝や魚、ときには山菜のスープをつくったり、鹿肉や猪肉を煮込んだりといった調理をしていました。

 弥生時代には、深鉢とは異なった甕形土器がつくられるようになります。そして、強火で加熱し、沸騰し、あるいは吹きこぼれてきたら、炉からはなして、蒸らすという炊飯がなされていくようになります。最近の研究では湯取り方法(小林正史2021「湯取り法炊飯から米蒸し調理への転換過程」『物質文化』101)といった調理法も推測されるようになっています。今後も研究が続いていくと思われますが、湯取り法でいうと、「どうして把手もないのに、燃え盛る炉から湯のはいった甕を持ち上げて、お湯を捨てたのだろう」という素朴な疑問もあります。柄杓(ひしゃく)の存在などが気になるところです。

強火を求めて

 いずれにしても、弥生時代では「強火で調理をしたい」という思いが強かったようで、甕形土器の形はどんどん被熱面積を高めるために丸くなり、また熱伝導率をよくするために薄くなっていきます。こうした改良は弥生時代を通じて続き、古墳が出現するころになると、布留(ふる)式甕という球胴の甕が誕生します。これは、地面から少し浮かせ、底の部分に炎をあて、また薄さ3mm程度となっているので、きわめて効率がよくなっています。現代でも、炊飯器メーカーが「強火炊き」に苦心していることを考えると、炊飯にかけた情熱を感じてしまうところです。

カマドの出現と調理用土器の器種分化

 炎を使いこなし、またより効率的に調理をするには、カマドが便利です。カマドは東アジアでは古代中国の漢代には普及していましたが、日本列島に伝わるのは5世紀です。そして、5世紀の日本列島、時に近畿地域では、羽釜(はがま)や鍋など、新しく煮炊きをする調理用土器が出現します。また、球胴の甕は小型や中型といったサイズが小さいものになり、10ℓから12ℓ程度の長胴甕(ちょうどうかめ)が出現します。長胴甕はカマドに据え付けられた調理用土器で主に湯沸かしに用いられたと考えられます。土器の内面にコゲなどが付着せず、お湯を沸かした後のヨゴレや変色などがみられることが多いためです。長胴甕の上に、蒸気孔がある甑や、筒抜けとなっている甑をのせて、そこに布などに包んだコメをいれれば、蒸す調理が可能となります。筒抜けの甑には、簀子(すのこ)などが用いられたと考えられます。コメの内容はわからないことが多いですが、集落遺跡や古墳からモチのような土製品が出土しているので、モチ米を蒸して餅をついていた可能性もあります。多くは、コメを蒸す調理が炊飯調理に代わって導入されたと考えられています。

「蒸す」調理の普及とその内容

 ただし、いま、私たちが食べているごはんのお米であるウルチ米は、実は蒸す調理には不向きです。実際に蒸してみると、前日から水漬けをしたとしても芯がのこって固く、ぱさぱさして、おいしくありません。もちろん、これをおいしいと古代人が思っていた可能性もなくはないのですが、弥生時代においしいご飯を知っていた倭人(わじん、古代の日本人)が、本当に満足したのかなと思ってしまいます。これは2つの可能性があります。

 1つは、蒸したごはんは保存に向いていることです。糒(ほしいい)として、あるいは蒸したご飯を置いておいて、カマドの前で中・小型の球胴甕を使って、スープやお湯とともに、雑炊や湯漬けを作った可能性です。これは実験をしてもうまくいきまして、おいしく、また便利です。

 もう1つは、炊飯は中・小型球胴甕でつづいていたというものです。つまり、交替したのではなく、調理の幅が増えたと考えるということです。実は、中・小型の球胴甕には、吹き零れの痕跡や土器の底に米粒がのこされていたりします。1~3ℓの小さい土器ですが、五合炊きの炊飯器に匹敵するので、十分な大きさです。むしろ甑や長胴甕は、10ℓ近く、竪穴式住居に居住したと想定されている5~6名の食事には大きすぎます。大は小を兼ねるといいますが、すこしやりすぎです。

酒造と醸造

 それでは、大量の蒸し米を古代の日本人はどうして調理したのでしょうか。1つの推測ですが、蒸した米は麹をつくることができます。麹ができれば、酒、酢、味噌、醤油など、酒造や醸造につながっていきます。

 ちょうど、甑が出現する時期には須恵器の大甕といった酒造に用いられたと推定できる100ℓを超える大容量の容器が出現します。『播磨国風土記』宍禾郡比治里条に「大神の御粮(みかれい)、沽(ぬ)れて糆(かび)生えき。即ち酒を醸(か)ましめて、庭酒(にわき)に獻(たてまつ)りて宴しき」と記されています。大神に捧げた強飯(こわめし、蒸したコメか)がぬれてカビが生えた(麹か)ので、それで酒をつくり、新酒を神に献上して酒宴をした、という意味になります。また、『古事記』にも応神大王の時代、百済系渡来人の須須許理(すすこり)が、酒を造って大王に献じたと伝える記述もあります。

 ごはんだけではなく、お酒や調味料、保存食といった食文化のひろがりを土器の豊富さからよみとれるのではないでしょうか。こうした古墳時代中期、西暦では5世紀という時代に展開した食文化とその調理用土器はカタチを少し変えながらも、飛鳥時代、奈良時代、平安時代へと続いていきます。古代の食文化の原型ができ上っただけではなく、和食や日本酒にとっても重要な時期といえます。 古代から中世へ これが大きく変わっていくのは平安時代の終わりごろで、羽釜がカマドにはめこまれて、使用されていくことになります。ご飯の炊飯もやや浅めの羽釜を用いてなされるようになり、中世的な調理用土器へと変化していきます。こうした中世的な煮炊具は1つの地域では単純な構成となります。しかし、日本列島各地で独自の形態の羽釜や鍋(内耳鍋や外耳鍋)などが生まれ、郷土色の多様性を生んでいくと推測できます。鉄製の羽釜も普及し始め、調理道具は、土器だけではなく、さらに多彩になっていきます。