日本古代 土器の基礎知識

須恵器貯蔵器の用途

 貯蔵器の生産(須恵器生産)の導入背景には、貯蔵器機能の拡張があることは冒頭で述べた通りです。窯という土器を焼くための高温で大きな密閉空間を確保できたことにより、これまで製作されていた土器よりも、より大きくて丈夫な製品を焼成できるようになりました。これはすなわち、従来よりも容量の大きな製品の製作を可能にしたことを意味しています。では実際に、須恵器貯蔵器の用途をみてみましょう。

 例えば須恵器生産が始まった古墳時代中期では、大阪府の蔀屋北しとみやきた遺跡で出土した須恵器大甕は、約361 ℓを測ることが報告されています(中久保辰夫2019「近畿地方における須恵器の受容と供給–古墳時代の饗宴と土器生産–」『須恵器受容・普及の実態』考古学研究会)。また、和歌山県の鳴滝遺跡では、貯蔵器用の大型倉庫群の遺構が確認されており、容量にして300ℓにも及ぶ大甕が複数個体、出土しています。これらの製品は、大阪府の陶邑古窯跡群で製作されたものと考えられています。

 また、貯蔵器は大型製品のみではなく、大・中・小の様々な大きさをもつ甕が製作されていました。愛知県に点在する須恵器窯の猿投山西南麓古窯跡群を一例にあげると、容量約10ℓから約400ℓに及ぶまで、様々な容量をもつ甕が生産されていたことがわかっています(髙島悠希2024『古墳時代須恵器生産にみる技術移転と地域色発現の意味– 陶邑窯跡群と猿投窯跡群の貯蔵器を中心に–』)(図3)。このようにして須恵器貯蔵器は、多くの液体をたくわえることができる容器として生産されたわけですが、なぜ、こうした大きな容量を有する器を製作する必要があったのでしょうか。

 発掘調査で見つかる須恵器貯蔵器には液体が残っていることはないため、その内容物については不明瞭な部分が多いですが、文字資料が増加する奈良時代以降の文献資料の検討や宮都の発掘調査の成果では、甕を使ってお酒や酢を醸造していたことが理解されています。6世紀の北魏では料理内容を記した『齊民要術』や日本においても10世紀に定められた『延喜式』造酒司の条文には、多くの種類のお酒が示されており、古代酒のお酒の豊富さが見受けられます。

 また、奈良時代の都である平城京中心部の平城宮内や長岡京の発掘調査では、貯蔵器に関する文字資料や遺構がいくつも報告されています。平城宮内における造酒司と呼ばれる酒を醸造していた役所跡の発掘調査では、お酒やお酢の醸造に使用されたとされる須恵器の大甕の破片や大甕を据えた痕跡が認められており、あわせてお酒やお酢造りに関連した内容が記された木簡が多数発掘されました。中でも注目されるのが甕の付札木簡です。平城宮造酒司跡出土の木簡には、「荒河郷酒米五斗」(平城宮木簡2266号)や「三条七瓺水四石五斗九升」(平城宮木簡2331号)というように、液体の内容物や甕について記された木簡が多数出土しています。

 『和名類聚抄』(源順)をはじめとした古代の辞書を参照すると「みか」と「甕」は同訓異字として扱われており、当時「甕」は「カメ」という読みではなくミカと呼ばれていたことが理解されています(方国花2021「「瓺」と「甕」の比較からみた文字伝播ルート–古代出土文字資料の例を中心に–」『漢検漢字文化研究 奨励賞受賞論文集』漢字文化研究 )。「三条七瓺」というのは、3列目の7番目に置かれた甕という意味で、幾多の甕が縦横に配列されていたことが想定できます。

 また、長岡宮跡から出土した木簡にも近似した内容の荷札は出土しています。実際に長岡京跡右京八条二坊七町にて実施された右京217次発掘調査では、掘立柱建物の中に甕据え付け穴をもつ遺構が検出されており、多くの甕を配列していたという木簡に記されていた内容を傍証する発掘調査成果でした(公益財団法人長岡京市埋蔵文化財センター 2015 『長岡京市埋蔵文化財発掘調査資料選』長岡京市埋蔵文化財センター)。

 このようにして、貯蔵器はお酒や酢といった液体の醸造には欠かせない器であると同時に、都から貯蔵器に関連する遺物が出土していることから、当時の政府にとって多くの量のお酒をつくることは重要視されていたと考えられます。『日本書紀』や『続日本紀』といった国の歴史書の記述の中では、宴席や饗宴の記載が見受けられます。

 例えば、斉明紀の「須弥山を象ったものを飛鳥寺の西に作り、都貨邏人とからじんを饗宴した」という記載や「甘樫丘あまかしのおかの東の川原に須弥山を造って、陸奥と越の蝦夷を饗応した」という記載では、辺境の民に対して宴を催したことが示されています。また、当時の政府が渡来人を招聘し、宴を開いた際にも、お酒が振る舞われたものと思われます。饗宴は外交政策や支配政策の上でも重要な位置を占めており、それを支えたお酒造りを担う須恵器貯蔵器はなおさら重要な役割を果たしていたものと考えられます。

 もちろん、須恵器貯蔵器が都城のみで出土するわけではなく、各地域の消費地遺跡や古墳の周溝からも出土しています。このように須恵器貯蔵器が各地に流通したことにより、その地で暮らす人々は、食生活が豊かになったのではないでしょうか。

 先述したような食品材料を甕の中に長い時間貯めることによって発酵を促し熟成させるお酒や酢、さらにはひしおといった調味料の醸造が可能となったことで食文化が豊かになったことでしょう。また、より多くの飲み水を蓄えておくことが可能となったことで、古墳や住居、窯を造るといった作業時の水分補給としての役割が与えられ、作業効率が向上したとも考えられます。各地の消費地遺跡から貯蔵器が出土することは多く、一般的な集落においても貯蔵器が使用されていたことが窺えます。また、古墳の石室内や周溝部から貯蔵器が出土する例から、普段の生活に使用しただけではなく、葬送儀礼や祭祀といった非日常の面においても使用されました。

 土師器の甕は火を用いた煮炊きなどの調理器、須恵器の甕は液体を蓄えるための容器として、それぞれの役割が与えられ、双方の土器は生活の中に共存していくようになります。このように、須恵器貯蔵器が製作されはじめ貯蔵器機能の拡張が成されことにより、暮らしの質が高まったこと言えるでしょう。

文責:高島悠希