須恵器編年の基本的な考え方
古墳時代の須恵器は、カタチや焼成の雰囲気、意匠がおよそ1世代、つまり10~20年ほどで、変化します。これは須恵器に限らず、ほとんどの土器資料でみられることです。「どうして?」と思われるかもしれません。わたしたちがふだんつかっている、お皿やお茶碗を思い浮かべてみると、カタチもデザインもそんなに変わっていないように感じるからです。
しかし、作り手の立場に立ってみると、何度も同じ土器をつくっているうちにつくり慣れて、うまくなったり、逆に手抜きをするようになったり、本来の意味が失われて簡略化をすることはよくあります。それは、長期連載中の漫画のように、最新刊と第1巻で登場人物の描写がすこし変わっているのと似ているかもしれません。同じ作者であってもこういうことがおこるので、土器の場合は作り手が増え、世代が変わっていきますので、その分、変化が大きくなります。このように思索を深めていくと、たしかに、祖父母の世代、親世代と自分たちで、つかっている食器のデザインや形、色好みなども違っていることに気づきます。そして、メーカーや材質もかわっていることもわかるかもしれません。
須恵器は、現代のスマートフォンほど早く進化しませんし、またファッションほど移ろわないのですが、それでも変化していました。考古学者は、この変化を逆手にとって、様々な種類の須恵器各世代をまとめた一覧表をつくっていきます。これが編年表とよばれるものです。多くの土器の場合は、各世代の代表は集落遺跡で出土した土器資料で、なるべく同時に廃棄されたものが選ばれます。それは災害で埋没した住居にのこされていた土器群であったり、古墳に副葬されて、追葬されなかったり、盗掘を免れた資料であったりします。縄文土器、弥生土器、土師器といった土器の編年は、こうした指標となる遺跡の基準となる資料名を関して、編年を編んできました。それは、たとえば、庄内式土器、布留式土器といった名称で、さらに布留1式、布留2式などと細分されています。
須恵器の場合は、こうした使用後の同時性ではなく、むしろ使用前、生産段階の同時性を重視して、編年が編まれてきました。須恵器の窯跡では、比較的近しい時期に須恵器が生産されていて、つまり、窯場で須恵器を焼成して、その失敗品を灰原とよばれるゴミ捨て場に捨てたり、窯そのものが壊れてしまって、なかに焼成途中の須恵器が残ったりするので、創業時の様子が遺跡調査によって把握しやすいという特徴があります。
しかも窯跡は、灰原が10mにおよんで広がり、しかも炭を含むために黒い土で須恵器を含むために、発見しやすいという特徴があります。このように遺跡としてもわかりやすいため、同じ窯跡で出土した資料を各世代の代表に選出して編年が編まれてきました。たとえば、大阪府の陶邑窯跡群では、陶邑編年という編年が4世紀末から9世紀半ばまで構築されています。陶邑でつくられた須恵器は、北海道から鹿児島まで出土しますので、遺跡の時期を知る手掛かりとして陶邑産須恵器はとても大切です。
厳密にいうと、須恵器編年でも窯跡全体を対象とした編年、窯の中でも窯の中で出土した資料に限定した編年といった違いがあります。どちらを重視するのかといったことは研究者で異なるのですが、多くの研究者は窯跡全体を対象とした編年を使用しています。それは田辺昭三さんが構築した陶邑編年(田辺編年)と呼ばれています。
本内容は、陶邑編年、猿投窯(古墳時代では東山地区に窯が密集するので、東山窯ともいいます)の須恵器編年について詳しく述べたものです。このウェブサイトの他の内容と比べると難しい側面があると思います。しかしながら、東海の須恵器編年については大学の図書館でも配架されていない図書や雑誌、発掘調査報告書などを集めなければ、理解が難しいところです。また、各論文などは学術データベースとして公開されているわけではありません。したがって、ウェブ上で閲覧することも難しいところです。
そこで全体的な流れをつかみやすいように、やや専門的な内容も含めて、まとめることにしました。
文責:中久保辰夫