日本古代 土器の基礎知識

須恵器編年研究のこれまで

 東海地方の須恵器編年は、楢崎彰一さんによって基礎づけられました。
 つぎに、東山窯の須恵器編年を更新された斎藤さんはこの楢崎先生の弟子にあたるのですが、編年研究としては引き継がれていません。それは、斎藤さんの編年が、5世紀代の須恵器をもとに増子さんがつくられた編年(増子1980)を踏まえつつ、陶邑編年との比較(斎藤1986参照)をもって組み立てられたもの(中里2012)で、楢崎編年の系譜を引くとはいえないからです。

萌芽期の須恵器編年

 それでは、そもそも須恵器の編年はどのようにつくられてきたのでしょうか?実は、陶邑窯跡群の編年の基礎は、須恵器の窯跡ではなく、古墳から出土した資料を基としていました。 

 須恵器編年は、樋口隆康さんによる報告書『対馬』で検討された古墳から出土した資料、森浩一さんによる大阪南部の窯から出土した須恵器をもとに、くみ上げられてきた経緯があります(樋口1958、森1958)。1950年代後半のことでした。その翌年に、楢崎さんが発表された「後期古墳時代の諸段階」(楢崎1959)という論文は、東海地方の古墳出土須恵器を用いた広域使用の編年が提示されています。この論文では、1つの須恵器型式は仮定で、25年程度を一単位とする細分を重視するものでした。つまり、暦年代重視の編年でした。そこでは、いまでは受け入れられていませんが、岐阜県丸山窯を天武朝の時期と位置づけて、天武朝を群集墳最盛期に位置づけた点は、当時、重要な指摘でした。そして、大化改新の薄葬令を重視した古墳終末に問題を提起されています。 

 同時期、横山浩一さんは「手工業生産の発展 土師器と須恵器」(横山1959)で6世紀の須恵器型式編年を提示しました。この論文が掲載された『世界考古学大系』では、じつは楢崎さんが記された「後期古墳時代の諸段階」と共通する資料(福田古墳須恵器)を図面にみることができます。古墳時代の他の遺物と比較しても須恵器は、変化が速く、時間のモノサシとして有効であることが確認されているのです。 

 このように、古墳から出土した須恵器をもとに、相対的な新古関係を比較して、くみ上げられ、近畿と東海の須恵器の時間的関係がわかってきました。しかし、ここで、こうした研究に批判の声が上がります。 

批判を乗り越えて 

 1962年、森浩一さんたちは「後期古墳の討論を回顧して」という論文(森ほか1962)で、楢崎さんや横山さんの須恵器編年を古墳消滅の論点から批判します。批判は具体的かつ広範で、方法論としての問題、古墳から得られる資料には追葬が認められること(同時期とはいえないこと)、1型式25年程度という仮定年数の妥当性、畿内と東海では須恵器に地域差があることなど、多方面にわたって指摘しました。古墳資料による須恵器編年の基本的な問題点を提示しています。古墳は副葬時期が一度のようにみえるのですが、実はそうではないという点は重要です。そして、なによりも須恵器が窯で焼成されてから副葬にいたるまで、どれくらいの時間を見積もったほうがよいのかなど、考える点がいろいろとあります。 

 森さんにより、楢崎さんと横山さんによる須恵器の編年は一括で批判されました。しかしながら、たしかに両者は同じ資料を一部共有していますし、杯H(古墳時代的な杯で、丸底で高台がないもの)と杯B(飛鳥時代以降、流行する杯で高台があるもの)が同時共存する時期を設けるなど、基本的に同じ内容のものと評価されているように思われています。 

見過ごされていた地域差の問題

 実際は、両者には大きな違いがあります。楢崎さんも、横山さんも須恵器の「地域色」を認めない立場だったのですが、実のところ齟齬があります。詳しく述べると、横山編年では、高杯・𤭯の脚部・頸部の長大化がおきると須恵器の変化が指摘されています。しかし、楢崎編年では、こうした須恵器は、より早く、短くなる、短脚の高杯を提示しているなど、地域差を強調していることがみてとれま。この点は、いまとなってみれば、6世紀という時期における畿内・陶邑窯と東海・東山窯が異なった変遷をしているということを示していることになります。つまり、畿内と東海が歩調をあわせて変化していると考えていた両者なのですが、図らずも異なった変遷が認められることをそれぞれ論述していたことになります。 

 さて、その後の展開にも目を向けていきましょう。楢崎さんは『日本原始美術6』「須恵器」(楢崎1966)のなかで、東山窯資料も一部使用しつつも、東海地方の古墳資料による「期」を設定します。これはこれまでの研究の延長線上で、畿内と東海には変化がないことを前提とした広域編年です。さらに装飾・形象須恵器も含めた網羅的な編年図を提示して、これを簡潔にまとめた表を『日本の考古学Ⅴ 古墳時代(下)』巻末に示しました。なお、同書には森らによる「土器」(森ほか1966)で須恵器編年もまた示されている。この段階では、須恵器編年は、それぞれの研究者により、独自の編年案が林立していたといえるでしょう。 

 しかし、この年、田辺昭三により『陶邑古窯址群』(田辺1966)が提示されました。多くの考古学者に採用された「陶邑編年」の登場です。陶邑窯における標識となる窯跡から出土した須恵器の器種を単位として、新旧比較を念頭に入れた詳細な説明がなされているため、なにより読みやすく、「バイブル」的な編年として扱われました。これ以降、古墳時代の須恵器編年は、古墳時代最大級の生産地である陶邑を軸に議論されるようになります。ちなみに、この報告書の執筆には横山浩一さんも名を連ねています。

文責:中里信之