日本古代 土器の基礎知識

尾張の6世紀 須恵器変遷と地域性

 わたし中里は、かつて斎藤編年の標識資料である杯身について、再検討したことがあります(中里2012)。そこでは東山窯杯身は底部が平底であるという特徴をもっていること、型式毎の特徴と新旧関係を確認しました。その後、2019年には、窯から出土した杯身の形態変遷を軸に、窯出土資料には編年を編んでいくうえで量的、質的な限界があることから、古墳から出土した資料も加え、活用した尾張の須恵器編年を現在考えています(中里2019)。 

 以下では、その最も変化が鋭敏に示される杯身について概観していきましょう。
 東山10号窯期~東山15号窯期の杯身の形態変遷をみていきましょう(図1)。杯身は、古墳時代の食器です。蓋がつく食器で、蓋を受けるところを受け部、蓋の内側に重なる部分が口縁部といい、時期によって直立していたものが内側に傾き、短くなっていきます。また端部の形状がかわります。底は回転台を利用して、ナイフ状の工具で粘土を削り取って仕上げるという回転ヘラケズリをいう技法を用います。もっとも時期的な変化がわかりやすい須恵器です。 

 東山10号窯期は、東山10号窯の杯身ⅰ類と、器壁の厚く大型化したⅱ類を同時期とします。また、東山61号窯の灰層下層から得られた資料を東山10号窯期に位置付けています。東山61号窯期は、杯身が大型化し、器壁が薄い点が特徴です。つづく蝮ヶ池窯期は、杯身は口径が縮小し、体部が高くなり、口縁端部の段や凹線が痕跡的になりつつあります。この須恵器窯でつくられた時期の製品は、例えば、春日井市南東山古墳の杯身を例とすることができ、両者は同時期であるといえます。 

 東谷山1号墳期は、該当する窯資料は資料数が限られているために保留とさせていただき、古墳出土資料をもって時期を代表させます。杯身は口径の小型化と共に口縁内側の沈線が特徴となります。東山44号窯期は、杯身は口縁内側の沈線がより痕跡的となり、体部の回転ヘラケズリも一周程度と、全体的に製作にかける手間暇を省略していきます。東山15号窯期は、ほとんど口縁内側の沈線がなくなり、体部の回転ヘラケズリも一周程度となり、さらに省力化がすすんだことがわかります。また、この時期には、東海特有の平底ではなく、丸底の形状をもつ須恵器杯身もあり、連続で2~3周回転ヘラケズリがあるものもあります。 

 以上が6世紀を通じた須恵器杯身の変遷となります。徐々に省力化するものがあらわれてくることがわかります。また全体にサイズが小さくなっていきます。 

 しかし、6世紀には、陶邑窯と東山窯の須恵器杯身はともに大型化します。流行が変わったといえます。そして、これは日本列島に広く波及した動きの可能性があります。ただし、製作技法に着目した場合、それぞれの生産地の技術に基づくことが明らかです。わたしは、須恵器をつくった工人が移動したという背景は考えることができないと思っています。 

 その根拠として、長脚一段透かし有蓋高杯があります。この須恵器の登場は、須恵器の大型化開始より一段階遅れてつくられます。かつて、東山窯独自器種と捉えたのですが(中里2008)、畿内でも局所的にみられます(岩越2024)。尾張(東山窯)では、蓋杯(蝮ヶ池窯期~)・はそう(東谷山1号墳期~)など相対的に早く小型化する、二段透かしの無蓋高杯は独自に杯部が深くなる(東谷山1号墳期~)点は陶邑窯とは異なる動きとして理解することが可能です。須恵器の大型化の規範が陶邑窯の方が強いようにみうけられる一方、尾張は個々の器種毎の変化であり、地域性として理解が可能です。大型化とは、陶邑窯の指導性とは違う次元ではないだろうか、とわたしはみています。なお、蝮ヶ池窯期から、尾張の須恵器生産量・拠点が減り、大型古墳造営も低下している点は、いまの議論にとってさんこうになります。
 各器種の形態変遷について私の論文を参照してください(中里2024)。 

6世紀の併行関係と陶邑編年

 増子さんや斎藤さんは陶邑編年との対比により、東山窯編年を組立てました。さらに尾野さんは杯類の大きさにより、東山窯の蝮ヶ池窯を位置づけようとされました(尾野1993)が、後に杯類の変化に陶邑窯と東山窯に差があると認めることになります(古代の土器研究会1998)。 

 楢崎さんの試みたような東海地方の須恵器を日本全国に適用する編年案は、いまとなっては困難といえます。もちろん、様々な編年試案を提示することによって議論が進化してきた学史は尊重されるべきです。楢崎さんの研究があるからこそ、より洗練された編年的理解に導かれているからです。 

 それぞれ独自の変遷が畿内(陶邑)と東海(東山/猿投)にあることを認めたうえで、両者の時期的な関係(併行/並行関係)はどのように理解できるでしょうか。 

 尾野さんは、並行関係や暦年代を追及するため、通時期的に研究をされています。そこでは5世紀は三河神明遺跡の共伴事例に求め、7世紀は宮都出土の猿投窯産に求められています。もちろん、賛否両論があります。 

 陶邑窯跡群でつくられた須恵器が北海道から鹿児島県まで供給されているように、東山窯の製品も5・6世紀の段階でも広域流通しています。他の産地でつくられた須恵器との共伴もありうることです。特に信濃以東では、北関東でつくられた須恵器と共伴する可能性があります。それによって群馬県榛名山が6世紀初頭に噴火した時に堆積した火山灰の降下年代が参考になります。陶邑窯系の「地方窯」とは異なり、地域性の大きい尾張・東山窯産ならば、陶邑窯とは別に広域編年のカギになる可能性があるのです。 

 以上を踏まえつつ、東山窯の外部要素の抽出による並行関係も引き続き考えていく必要があります。そして、産地同定も考えると、陶邑窯などとの比較は今後もより一層大事なことです。

文責:中里信之